☆何処へ向かうのか?
これから自分は何処へと向かっていくのだろうか?
全く予想が出来なかったとしても、向かっていく方向に安心感を覚えます。
季節が移り変わるように、人生にも変化があります。
区切りという言葉がありますが、今までずっと自分自身に流れ込んで来ていた状況に、変化の前兆を感じる瞬間があります。
人生は、ある一定のサイクルで、絶えず変化を繰り返しているようです。。。
そろそろ変わる。。。という予感があり、変化の予感と共に、意味が解らなくても、次なるものに向かうための準備が始まるのです。
準備といっても、次に何が始まるのか?など解りもしないのに。。。です^^;
何故かやらなければいけないことでも出来たかのように、行動や感情に変化が起き、興味の対象や、見るもの聞くもの~耳に入ってくるものが確実に変わってきます。
変化が起こり始めると、アンテナの向きが変わっていくのです。
明らかに、次なる人生のためへの変化です。
そうこうしているうちに~次なる変化の対象が人生の目的になっていくのです。
自分の意思で変化を起こすのではなく、自然と何かが入れ替わる感覚です。
その変化を眺め、何が起こるのか楽しみにしながら~その時を待つのです^^
やがては~その下準備の意味を知らされる事となります。
なかなか行動を起こしにくかった事なども、時期が来ると、そうも言っていられない気忙しい状況となり、自分が望んでいるのか?何かに突き動かされているのか?の境目のような心境ではありますが、今までの慣れ親しんだ環境が好ましく思えなくなったり、それ以外の対象に熱い情熱が込上げてきたり。。。
確実に好みや価値観が変わってきますが、飽きたという事ではないようです。
何かある事をしなければいけないような気になるのです。
あたかもこれが前々からの人生の目的だったかのように。。。
やがてはその感情が次なる目標となり、その方向へと進路を変えていくのです。
こう考えると~何度も人生の目的を達成する場面に、立ち会って来たことになります。
この感情は、自分の内なる眠っていた感情なのか?はたまた、大きな枠の中で偉大なる存在に動かされているだけなのか?錯覚に陥る事もあります。
不思議になってしまうほど、それは巧妙で完成度が高いのですが、全く不自然さを感じさせないものなのです。
だからといって、全く自分の意思に反する事ではない、意志というものに対しての、愛あるサポートであることは間違いないようですが。。。
次なる予感も感じたから起こるのか?前から設定されていた事なのか?
この微妙な時間差は、占いの場面で時々不思議に思うのですが、自分の発言した言葉や押し寄せる感情が、ただ現実化されたのか?はたまた、ただ予知しただけの事なのか?判断がつきにくい時があります。
自分自身の日々の出来事に対してもそうです。
押し寄せる感情は、実際予感するからこそ出てくる言葉であって、直感で感じ取っただけの事で、先を読んだ。。。という事なのかもしれませんが。。。自分の意思や言葉が未来を変えるのか?予感だけなのか?時々境目がないのを感じます。
きっとこうなっていくであろう。。。などと感じる事が、実生活の中でも実現化する状況に遭遇する時を、何度経験しても新鮮で不思議な感覚がします。
ですが。。。感じる事に対して、余分な感情まで付け加えないようにしなければいけません。
不要なものを加えただけで、微妙に状況は変化します。。。
そのまま。。。を感じ、見つめることですね。
人生の何かが変わる時とは、果てしなく続く大海原にでも放り出されたような気分にもなりますが、レイキが側にいてくれることで、細かな不安はあったにせよ、きっとどうにかなる。。。大丈夫。。。と思えるのが不思議ですね。
ただ単に腹が据わったというだけのことかもしれませんが。。。^^;
レイキの精神性向上の行き着く先に、どんな時でも静寂を保っていられる心境になれるというのは、結果的には、全ての過程で、騒いでも、落ち着いていても、結果はさほど変わらないから。。。ということを理解できたからだとも言えそうです。
逆に騒ぐ事で、状況を腐らせてしまう場合も多いのでは。。。
実際自分自身を疲れ果てさせ、不安を増幅させ、健康を害する方向性へと向かわせているのは、他の誰でもなく~自分自身なのでしょう。
直感を働かせ、敏感なのは良いのですが、どのような状況に陥っても、未来を信じる心がないと、小さな事ばかりに意識が集中してしまいます。
やるべき事が不完全だと、どうしても不安が付きまといます。
人と比べてどうか?ではなく、自分自身が一生懸命に取り組んだ、自信を持てただけで、胸を張っていられる状態だという事でもあり、充分頑張っているという事なのではないでしょうか?
日常から逃げない生活を続ける事で、安心が手に入るようです。
不安に怯える事もなくなりそうです。
その積み重ねの行き着く先は、自分の力ではどうにもならない範囲の事に関しては、宇宙に、神に任せよう。。。人智を尽くし天命を待つ。。。という心境の確立なのかもしれません。
人生には~待つしかない状況の時が結構多いのを感じます。
その待つ事が、また一番辛い事かもしれませんが。。。待つ事ができた人こそが、最高の~より質の高い幸福を手に入れているようにも感じます。
慌てる事で、人生の進む過程の中で拾う事ができる小さな幸福までをも、取りこぼしてしまう。。。という事なのでしょうね。
何処へ向かわせられるのか?などは、日々の目の前の事や、次々と自分に降り掛かる問題に、誠実に向き合い、片付けていけば、自ずと結果はついてくるようです。
そして未来を信じられるようになります^^
これはやるべき事をやった人にだけ与えられる~ご褒美かもしれません^^
☆買い置き
たまに本屋さんや古本屋さんで、ピンと来た本はストックしておきます。
正直~その時は、今すぐに読むかどうかも定かではないような状態ですが、何故か買っておきたい。。。欲しい。。。買わなければいけないような感覚に見舞われます^^;
見方を変えると、衝動買いに近い状態なのですが、衝動的な直感は、あまり外れる事はないのが特徴です。。。
そしていつしかその衝動買いも、必要だから買っておいたのだ。。。と、堂々と胸を張り言い切れる時を迎えるのです^^;
ですが、そこに少しでも欲が入ってしまうと、ただの衝動買いに過ぎなかった。。。で終わってしまうようです。
これを読んだら得しそうだから。。。ベストセラーだから、話題の本だから。。。と言って、欲をかきながら起こす行動には、ただただ空しさが残るだけのようです。
損得抜きで、ひらめきを感じ、好感を持ったものに関しては、嗅覚が働いたという事でしょう。
何らかの企みや計算を働かせ起こす損得勘定の行動には、正しい直感というものが降りてはきません。
シメシメ。。。と舌打ちしながら、薄笑みを浮かべる人に、神が微笑むわけがありません^^;
だからこそ失敗する確率が高いのです。。。
無邪気に~これは良いかも。。。と、衝動買いと罵られる様なリスクを背負っても?、どうしても必要な気がする。。。という湧き上がる素直で純粋な行動は、自分に必要な情報を、知らず知らずに見分ける直感的感覚が働いているからなのかもしれません。
時として無謀で衝動的だと感じられる行動にも感じられますが、一点に気持ちが集中している時こそ、利益などということは考えていないのも特徴です。我を通そうとする子供が、欲しいの一点張りで、目的を果たす場面もありますが、そこには欲しいという欲求はありますが、後で怒られるかもしれないリスクなどは、これっぽちも考えていないのと同じです。
子供の行動とは少し意味が違ってはきますが、些細な事ですが、どうしても譲れないと思う時には、底知れぬ欲求であることは間違いなさそうですし、何らかの意味や必要性があるような気もします。
衝動買いの~本に例えると、どの本も自分の出番を待っていたかのような~まさにこの内容がやがて迎える未来に、必ず必要になると予知して買ったのではないか?とも思えるような、完璧なタイミングで、出番を迎える華々しい古本たち。。。が、軒を連ねます。
何故あの時欲しいと思ったか?が、いつしか解明される時が訪れるのです^^
最近このような現象が頻繁に起こるようです。。。
買って置いてよかった~と思う瞬間を何度迎えたことか。。。
人生には必要なことが起こる。。。ということを証明するかのような瞬間です。
このような現象を繰り返し経験する事で、すべてが繋がっている人生というものを、感じざるおえなくなってしまいます。
こう考えると人間には予知能力が備わっていて、それを本人が意識していないだけで、なにくわぬ顔で、確実にその魔法を活用していることが理解できます。
このような感覚は、日常的なものであって、さほど意識するものでもないのかもしれません。
ですがシンクロニシティなどという言葉を意識してしまうと、不思議な偶然などともてはやされるのでしょうが、日常的に、その魔法をフル活用している人も少なくはないのかもしれません。
誰も、遠い未来の準備として、これとこれが必要となるから揃えておこう。。。などと、気を回し始めたらきりがありませが、それを直感的に日常の動作の中で、何気なくこなしてしまう人間の本来の力とは~偉大なものだと感じてしまいます。
この動物的感覚を失いさえしなければ、自分がどれほど守られているか。。。大切に扱われていて、絶妙なタイミングで、必要な時に必要なものを受け取っているのかを、誰よりも多く感じられることでしょう。。。
感謝という気持ちが溢れ~人は成長させられているようです。
自力で感じ、自力で受け取る。。。
自分の受け取ったものが、空虚感を埋めたいような場面を迎えると、その穴埋めをしてくれるかのように、自然な形で目に飛び込んでくる。。。
ここにいるよ。。。!と、力強いオーラを放っています。
ふと意識の中に入り込んでくるので、そういえばこんな本を買っておいたんだっけ。。。と開いてみると、まさに今この瞬間に欲しい言葉がぽんぽんと連なって出てきます。。。
乾いた喉を潤すような感触が残ります。
今の答えが全部揃っています。
これが欲しかったんだ~と、感動させられるのです。。。
いくら考えても、いくら搾り出しても出てこなかった、一番欲しかったメッセージを、受け取る事となります^^
自分の出番を待つ面々たちは、必要でない時には、さほど存在感も感じさせずに、自己主張もせずに過ごしていますが、いざ自分の出番だと感じた瞬間には、おとなしかった頃とは想像もつかないような自己主張をし始めます。。。
何が何でも自分に気づいてくれ!とい言わんばかりです^^;
自分が今きっと役に立つよ!。。。と、パワー全開で、本棚に並べられた自分だけを輝かせるのです。
やはり、人はどうしても輝くものには目をやってしまいます。
気づいて手にとってもらった本たちは、自分の持つ力を、買ってくれた人に敬意を示すかのように、自分の持つ力以上のものを、愛を込めて流してくれます。
その溢れんばかりの愛情で、復活させられる自分がいます。
どんなものにも偉大なる力が備わっていて、その力を使って欲しくて、自分の出番を待っています。
そこには、純粋な奉仕の心だけしか存在しません。
物。。。といいうものにも心があり、その心を生かす人には、そのものの本来持っている以上の力をいただけるようです。
いろんなアイテムを手に入れる瞬間~引き合う瞬間には、お互いがいつか必要となる日を直感的に感じ、光を感じあうのかもしれません。
このような~素敵な数々の偶然を、敏感にキャッチし、大切にしていきたいものです。
美しいから目に飛び込んでくる。。。何かを感じるから引き寄せあう。。。これは、否定できない事なのだと感じます。
素直な湧き上がる感情だけを頼りに生きていると、素敵な~意味ある偶然の連続です。
焦りがあるとき、ストレスを感じる時などは、どうしても毎日起こっている奇跡を感じられなくなってしまうようです。。。
少しだけ~自分の周りを取り囲んでくれている面々たちを、温かな目で観察してみましょう。。。
きっと幾つもの奇跡に気づくはずです^^
伸びやかな素直な感覚だけは、失ってはいけないようです^^
☆ 育てる
ハーブや作物を育てるのは楽しいですね^^
そんなに過保護に育てているわけではありませんが、眺めているだけでもレイキが浸透し、ぐんぐん育つようです。
昨年からプランターに植えられ、根詰まりをおこしそうになっている幾つかのハーブやお花たちを、地面に植え替えると、それはのびのびとした表情になり、今まで狭いところに押し込められていましたから、思いっきり空気や大地のエネルギーを吸って、生き返っているのが伺えます。。。^^;
植物も狭いところで育つものと、広くのびのびとした空間で育つものとは、放つオーラが違ってきます。
しっかりと大地のエネルギーも吸収できますし、そこを拠点とし、思う存分根を張り成長できます。
人間も植物も狭い枠に固定され、深呼吸すら間々ならない、栄養分も充分に吸収できにくい環境で生きるのは、苦しくもあり、根も詰まってしまうのでしょう。。。
心の大切に守るべきところが、根詰まりを起してしまったら大変です。
植物を見ていると、かなりの根詰まり状態であっても、そこそこは生きていられるのです。。。
掘り起こすと、根っこが絡まっているばかりで、土の分量がかなり減っています^^;
このような状態であっても、見た目はあまりわからないのですが、中を少しだけ覗いてみただけでも、根が複雑に絡み合い、すっきりしないのが感じられます。
表面は水をよく吸い込みますし、何の問題もなさそうに感じられるのですが、人の心と同じで、表面に出ている部分だけでは判断しにくいようです。
ですが、不充分な環境に植えられたものたちは、大きく成長できないのが特徴です。
毎年大きくなっていくはずのものが、成長が遅くなってしまいます。。。時にはどんどん衰弱し、やせ細り、枯れてしまう事も。。。
これは、枯れるまでのサインに気づいてあげられなかったという事です。
少し土が渇き気味だったり、活気がなかったり。。。
サインが全く感じられないことなどないのですが、表面上では、まだ大丈夫そうだ。。。と楽観してしまい、土の中がどうなっているのかを思いやり、理解してあげられなかったという事のようです。
このように、環境が破綻したとしても、少しの間は今までの名残りで生きていられるのです。
少しずつそのものを蝕みながらも、完全に枯れるまでは、他の正常なものたちと同等に扱われてしまうのでしょう。。。
心や身体を蝕んでいるものに気づくのは難しいのだと感じますが、少しの変化にも、もう少しだけ敏感になり、思いやりの心を向けていたならば、大事に至らなかったという事でしょう。
我慢強い日本人。。。人間も、何らかの兆候が現れても、今は弱音を吐く時ではない。。。と我慢し、気づいた時にはストックしてある栄養分も枯れ果て、養分の吸収も悪くなってしまうのでしょう。。。
環境を無視し続けた結果は。。。というと、根詰まりだらけで、精根尽き果てた、今にも枯れそうな一人ぼっちの自分が残されるだけのようです。
管理し続ける。。。ということがいかに難しいかを感じます。
泣き言ばかり言い続け、弱音ばかりの人生では成長はありえませんが、弱い自分に気づき認めることは大切です。
困っている自分、悩んでいる自分、誰かの助けを必要とする自分、病んでいる自分、傷みを感じる自分を、内にこもらせることなく、上手に表現出来たら楽になるのですが、中々そうもいかないようです。
ですが誰かに弱音を吐くのではなく、自分自身で認めることで解消の手がかりがつかめるようです。
もしかしたら、誰かが自分を追い詰めているのではなく、自分自身で追い詰め、虐めているだけかもしれません。。。
被害妄想の強い人などは、事ある毎に、周囲に敵意を向けますが、自分をコテンパンに虐める犯人はというと、自分自身が作り出す妄想に雁字搦めにされているだけで、窮屈な人生へと向かわせているのは、自分自身に他ならないという事は、そう簡単には気づかないのかもしれません。。。
この人間の根詰まり状態も、自分の力ではどうにもならない環境化にいてそうなってしまうものと、自分で自分を縛り付けるがために、苦しみへと追い込んでいる場合があるようです。
やはり人間には、植物とは違い、意思や行動力がありますから、自分の方向性はある程度決められるのです。。。
どんな環境にいたとしても、行動力や心の持ちようで、何とか生き延びられる所もありますが、最近~完全に植物化し、受身でしか生きられない人が多いのを感じます。
植物や家畜などであれば、従順で文句も言わず、与えられるものに満足しながら、その枠に中に楽しみを見出し、感謝の心を持ち生きているように感じますが、人間は?と言うと、無償で与えられているだけでも有難い事なのに、いつしか文句が出始め^^;、現状に満足しきることはないようです。
水をくれ!食べ物をくれ!心を満たしてくれ!と、他人や周囲の環境に対し、呆れるほど要求が時と共に高まりますが、自分は?と言うと、自分以外のものに愛を与えるなんてとんでもない様子。。。
人には与えたくはないが。。。または与え方を知らない。。。が、自分の利益の追求だけは、おぞましいほどの欲をあからさまに表現する。。。
清らかな~植物達のような心を取り戻して欲しいものです。。。
物質世界に雁字搦めにされていると、自分自身を育てることすら出来なくなってしまいます。
競争社会の中でいかに自分が得をし優位に立つか。。。目立つか。。。しか、考えられなくなっていきます。
この社会の中に価値観を見出せば、当然誰よりもお金持ちで、誰よりもきらびやかで、持ち物を見せびらかす事に執着してしまうのでしょう。。。
中身が空っぽな~見た目の良いものしか自分の周囲には置きたがらなくなっていきます。
見た目も良くて、中身も充実しているものであれば良いのですが、物質的なものを追求する心に映るアイテム達は、決して心を満たしてくれるものではなく、気を紛らわすだけのもののようです。
ですが、本当の自分の魂が欲するもの。。。を知らずに、気づかずに生きる人たちは、それこそが最高の幸福だと信じ疑わないのです。
この状態を永遠とキープし続けられれば幸福ですが、いつしか本心が求めるものとのギャップに苦しむ現実を迎えてしまうこともあるようです。
そうなった時に、何をどうしたら、心が満たされるのか?に苦しみます。
これほどまでの名誉や富、地位を獲得し、これ以上何を求めるのか?。。。
がむしゃらに戦士となって生きてきた人は、心を満たす事や、心を癒す事を忘れきってしまい、そこで自分自身の中での大改革が始まるのです。
今までの人生を覆すような、真逆の人生を生きることが、真の幸福だと悟った時。。。失った時間を恨みますが、これも本物の人生に向かうための過程だったということです。
そして、長い時間をかけて、自分を育む。。。ということの意味を知るのです。
それがいかに重要で、どんなものよりも~満足感や幸福感、達成感を感じられるものだということを知らされます。
人はいろんな事を経験しながら、たった一つの大切な事を学ぶようです。
そのたった一つの重要な学びを得るために、時間をじっくりとかけ、熟成させ、豊かに実る時を待つのです。。。
そしてここで初めて、自分を育てるキッカケをつかむのです。。。
☆深い意味
引き寄せの法則の奥には、更に重要な意味を持つ秘密が隠されているようです。
同じ波長を持ったものが引き寄せられる。。。とよく言いますが、それも事実ではありますが、それだけではないようです。
同じ波長は、どうしても響き合いたがりますから、同じ雰囲気を醸し出す人たちが集まるのは当然の事でしょう。。。
ですがただ単純に引き寄せられた人を見て、自分の姿だと錯覚するのは早すぎます。
時には、たまたま仲良くなったり、何らかの意味を持ち引き合い、縁が結ばれたりした人たちが、自分にとって好都合な相手で、自分とは対照的に輝いている人だったら。。。
この輝きを目の当たりにして、誇らしいやら、嬉しいやら。。。相手も姿・才能などを自分だと錯覚し、自分の姿に反映しながら、うっとりと眺めるのでしょう。。。
ですが、喜ぶのは早すぎるかもしれません。。。
その奥には、更に意味ある何かが隠されているかもしれません。。。
物事の意味というのは、そんなに単純ではなく、何層にも重なった意味を持っているものです。
その重なる意味の、どの部分まで理解できたかで、そのものが表現しようとしている、意味の深さの受け取れる度合いが決まってくるのです。
レイキエネルギーに対する理解度や人格によって、癒しの能力が関係してくる。。ということとも繋がるようです。
人格形成。。。自己啓発などという言葉がありますが、自分を高める努力を怠らず、人格を高めれば高めるほど、目の前で起こるで出来事の意味を、どの人よりも深く理解し、追求もできるのです。
そして誰も気づかなかった事実を突きとめられるようです。
その事実を意味する深さの理解度によって、数えきれない程の差が生じてくるようです。
ですから、物事を深く考える人と、単純にしか考えられない人との差は、性格的なものも関係してくるかと思いますが、精神性というものが関係してくるようです。
人間の深みが、人生に降りかかる出来事の意味するものを、より多く深くキャッチできる。。。
人格形成が、人生をより充実させ、より楽しく幸せにしていく鍵となるようです。
面倒くさがり屋さんは、常に早く何かが解決する事を望んでいます。
結果に対し、多少違和感やズレを感じたとしても、そういうことにしておこう。。。などと、早めに帳尻あわせを考え、決着をつけようとしたがります。
結論を急ぐようです。
少し考えなければいけない問題や、時間を必要とする出来事に直面すると、面倒くさいという気持ちが先走り、最後まで考えようとする事を早々と放棄します。
解決を誰よりも早く望む反面、物事に真剣に腰をすえて取り組む事が嫌なのです。
結果を早く見たいのは誰でも同じですが、結果はこじつけるものではないですし、結果を無理やり早める必要もなく、待っていれば自然と結びついていくものです。
ですが、困難を嫌う人たちは、こじ付けでも良いから、窮屈なその場から離れたくて仕方がありません。
突き詰めた環境に置かれると、ソワソワしだし、どうしたらその場から逃げられるか?。。。しか考えなくなっています。
そもそも抱えている、今考えるべき問題は、全く違うところのあるのにもかかわらず、意識は違うところに反れ、何を考えるべきだったかも定かではなくなってしまいます。
このように分散した意識の元では、解決能力などというものは発揮されるわけがありません。。。
はじめは~些細な問題を要求されただけだったとしても、このように逃げることばかりを考える習慣がついてしまうと、ちりも積もれば山となり、小さな丘が、気高く険しい山となって、気づいた時には自分の前にそびえ立っていることもありそうです。。。
いざ真の解決を迫られた時に、その高くそびえたつ山を登り、一つ一つ問題を削っていくことは困難を極めます。
その山済みされた問題たちは、ちっとやそっとでは手に負えないように巨大な山脈になっている場合も。。。
小さな積み重ねを呪いたくなる時が訪れます^^;
単純に物事を捉え、解決していく習慣が、理解すべき本物から遠ざけてしまっているようです。
自分に与えられる日々の出来事は、必ず解決策を見出すためのメッセージとしてやってくるのです。
不運だ。。。としか思うことが出来ない場合などは、意味するメッセージを読み取れないまま時間が過ぎていき、単純な人生となってしまいます。
自分が過ごしてきた環境の中で関わった~または目にした人たちが、自分自身をコントロールできず、今ある現状を打破する気も起こさず、ただ受身の現状を呪い、愚痴を言うばかりの人たちを肌で感じ、時にはそのような種類の人たちに嫌悪感を感じ、こんな風にだけはなりたくない。。。という気持ちが刻み込まれる経験があったとしたら。。。
または、そのような環境の職場や、人間関係、しがらみ 。。。などに揉みこまれそうな環境で過ごし、憤りを感じた日々を過ごした経験があったとしたら。。。
これはただ単についてなかった。。。嫌なものを引き寄せる自分がいただけだ。。。同等の波長を出していただけだ。。。ということだけではないようです。
そこで意識がとまってしまうと、後が続かなくなり、発展が途絶えます。
人生が意味するものとは、ひとつの結論だけではなく、深く追求した幾つもの答えが用意されているようです。
ただ、その人が何処まで深く読み込んでいけるかにかかっているようです。
何らかの憤りや、恐怖、嫌悪感、反発。。。などという感情を起こさせているものの存在とは。。。?
突発的な状況で成立っているだけではなく、全てその人の解決すべき問題の取り組むキッカケをくれる出来事が繰り広げられ、積み重ねられているだけのようです。
引き寄せたのは事実ですが、引き寄せた内容は、自分自身の解消すべき問題を教えるものであったり、これから自分がやろうとする使命や、魂からの情熱を呼び覚ます事となる感情に結びつけるための出来事であったり。。。
必ず必要な箇所への刺激となっていることに間違いありません。
自分の幼少時代から今までを振り返ると、現状に希望や夢を持たない人、現状は自分の力で変える事は出来ないとしか思えない人、今の環境に簡単に押し潰されそうになっている人、または潰れてしまった人、自尊心をなくした人、人目ばかりを気にしビクビクと生きる人、自分というものを持たない人、自分を高める選択をせずに人を蹴落とす事を選ぶ人。。。このような強烈な印象を残す人たちと袖すり合い、目の当たりにする場面があったのを記憶しています。
醜く自分を汚す人。。。希望を見出せない人などを横目で見ながら、あのようにだけはなりたくない。。。と、自分の心に強く言い聞かせながら今まで来たような気もします。
気持ちの持ちようや、少しの工夫で人生は明るくもなるではないか。。。と密かに憤りを感じ、心の中で訴えかけていた自分を思い出します。
今まで何故このような情景~感情に触れることが多かったのか?と思った時に、ひとつのヒントが見つかったのです。
自分自身の魂が求めるもの。。。それは現状を変えていくこと。。。
どのようなカルマや魂からのしがらみなどを抱えていたとしても、変えられない未来などない。。。という場に生きたいと、魂が求めている叫び声が聞こえてきたのです。
このような状況に陥る人に対して湧き上がる感情は、ある意味自分自身を突き動かす原動力でもあったようです。
現状を変えようとしない諦めた人たち、ネガティブな感情に支配されきってしまった人たちを見ながら、なんとも歯がゆい思いをさせられてきたのは、思いの現実化や、根本からの心身の健康を追求する方向に進むべきメッセージだったのだと実感します。
心身ともに底から健康である事を願う自分~それを求める魂がいるのでしょう。
自分が経験する全ては、魂からの要求であったり、使命であったり、大きな意味を持つ部分へと繋がっていく何かを知らせようとしているようです。
それに気づき、真から行くべき方向を追求する事で、魂の進むべき方向へと~自然と流されれていくのです。
☆プチ断食
何故か急に思いつき、必要に迫られたかのように試みる事に。。。
体の中を掃除したいという感情が強くなったのです。。。
プチ断食は、想像以上の多くの発見を届けてくれたようです^^
どういうわけか、食べ物を口にしないのが、とても心地良いのです。
お腹が空くかと思えばそうでもなく、日常の一部分を取り除いたとしても、それだけで一日が支配されているわけではないことに気づきます。
食事というのは、一日でこなすひとつの習慣に過ぎないのだということに気づきます。
ひとつの習慣を一時的にストップしたとしても、さほど痛みを感じない。。。
人の意識は、多くのものが混ざり合っていて、何もひとつの感情に拘り一箇所に意識を集中させる必要もない~または、集中しているわけではない。。。のだということに気づきます。
この経験を通し、中々離れることが出来ない習慣も、自分から削ぎ落とすことはそれほど難しいものでもなく、そのものに執着し過ぎさえしなければ、離れる事も可能なのだということを学びました。
一日のうちでも、いろんな感情が浮かんでは解消され。。。の繰り返し。。。
人間の食欲。。。という柱ともなる欲をひとつ取り除く事で、驚くほど意識が鮮明になり、いろんな所に意識が伸び、今まで全く見えなかったものが見え、多くの発見・収穫があるのです。
人が欲に支配される事で、見逃すもの~失うものは多い。。。ということを学ばされます。
拘りを無くし、もっと平均的に感情を受け止めることで、感情の偏りをなくしていけるような気もしました。
一箇所に感情を集中しすぎるがために、その箇所に邪気が集まり~病気になっていくようです。
断食と言っても、一日くらいであれば、無理なく耐えられます。
少し体が重いと感じたり、胃の調子がどうもスッキリしないと感じたり。。。
そういう時には、思い切って断食をすると、驚くほど回復してくれます。
特に、不調と感じなくても、自然治癒力を高めるためには、とても効果があがるのを感じますが、レイキも同じ事が言えるのですが、不調の時こそ効果をはっきりと感じられるようです。
正し、自分がこの行動を心から欲する時でなければいけないようですが。。。^^;
断食後は、とにかくご飯が美味しく感じられるのです。。。
芯から生まれ変わったような感動があります。。。
消化にエネルギーを使いすぎる事で、他に回っていくべきエネルギーが、消化だけに占領されてしまうようです。
消化にエネルギーを費やさない食事や、体が毒。。。と感じる添加物など多く含まれた食事は、消化や解毒に対し、体が使うエネルギーは相当なもののようです。
身体に負担のかかるものを食べる事で、自然治癒力に回るエネルギーが制限されてしまいます。
かつては暴飲暴食をし続けたとしても、レイキを始めると、今まで好んで食べていたものや、気にならなかったもの、好みなどに変化が出てきます。
どんどん身体に好くないものを自然と拒否するようになるのです。
一時的に好みの戻りはあるのですが、そのうち害となる食品を食べたくなくなる。。。
嗅覚が見分けるようになっていくようです。
レイキを始めたり、健康生活を意識する事で、添加物や害となるであろう食品を異常なほどに排除しようとする傾向もありますが、またそうする事でレイキの流れも良くなってもいきますし、自然治癒欲を促進させるには好都合なのです。
ですが、そこまで自分を抑圧しながら健康に励まなくても、健康な心の習慣を保つ事と、レイキが順調に流れる状態を保つ事で、自然と体が欲するものへと向かっていくのです。
健康生活といっても、自分が欲していない事を、自分の心を曲げてまで行なう必要はありません。
食べたいものを食べ、ありのままに生活しているうちに、心や体が求めるかのように、自然とその方向へと流れていくものです。
気持ち良いと思いながら実行できるようになるのです。
自然な流れに任せながら、その方向に行くことが重要です。
何かを実行に移すためには、より効果を上げることを目的に、心を無視して修業的な感覚で無理をする傾向にあります。
自分の心を曲げた状態を一時的に作ったとしても、反動が必ず起こります。
レイキを学ぶということは、その反動を作ってしまう状態から離れることなのです。
心の反発や、行動に対しての反動を作ることなく、自然に向かうべき方向に向かっていく。。。
その状態へと状況を促すことは大切ですが、無理してまで作る事はないようです。
体が欲する欲しない。。。という芯からの欲求をを無視し、頭だけであれはよくない。。。これは毒。。。と分別し、差別した意識を持つ事で、口にするものに対し、罪悪感や否定という、ネガティブな感情が生まれます。
健康食品を口にしながら、害のあるものを食す人を否定し、自らの心を汚す行為だけは避けたいものです。
この決め付けは、良いことを志す反面、ネガティブな縛り付けの感情をより強化してしまうことになってしまいますので、この辺のさじ加減も程ほどにしないと、間違った方向へと進んでしまうこともありそうです。
良い行動を取っているつもりであっても、見極めが間違っている場合が多いのも事実です。
見極めを誤らないためにも、変化していく自分をただ見つめることも必要です。
今まで暴飲暴食をしていた自分が、どのように変化するのか?
あまり身体には良くないといわれる大好きだった食べものが、どのような過程で、自分から削ぎ落とされていくのか?
レイキの通りを良くしながら、ただただ見つめる。。。自分変化を眺め、観察し続ける。。。
そうこうしているうちに、だんだんと、好みが変化し、体が欲するものが移り変わっていきます。
以前好きだったものが、そんなに魅力あるものにも思えなくなっていくのです。。。
制限せずに、ただ自分の変化を見つめ、それに従うことで、無理せず心が屈折することなく、素直な気持ちで変化を楽しめるのです。
やがては、今どうしても食べたいと思う食品が、自分自身の体が欲する食品だということにも気づくのです。
不足している栄養素を、欲求という感情が知らせてくれるようにもなっていきます。
ただ体の変化に逆らわず、自然に任せ、流されるだけの自分でいることで、必要な時に必要なことが起こり、自分が欲するものが何なのか?を知らせ理解させてくれるようです。
無抵抗な状態で、宇宙に身を任せる事で、自分自身の感覚が、必要なものをキャッチする完成されたセンサーになっていくようです。
自動制御されるようになり、自分に湧き上がる感情が的を得た質問の答えとなり、体の痛みが歪みを知らせ、必要な栄養、行動、習慣が、日常の中で創られていくようです。
そしてありのままの自分が完成するのです。
ありのままの無抵抗な自分で生きることこそが自然でもあり、宇宙の魔法と繋がることだと悟るのです。
そして宇宙や自然の法則に素直に従う自分が出来上がります。
☆意味するもの
人は自分でも気づかない部分で、何らかの恐怖や不安に支配されているようです。
もし、昔から病気と言うものに漠然と恐怖を感じていたとしたら、家族を思い、家族が健康であって欲しい、または健康でなければ未来を維持できないと感じ、密かに健康が害される事に、恐怖感を常に抱えている。。。
または、それが過去、前世から抱える根深いものであったとしたら。。。
人の心の中にある強烈な思いは、幾度となく何らかの形で、その恐怖感を象徴し、関連するような出来事となって、いろんなメッセージを送ってくれることとなるようです。
その関連性に気づくか気づかないかで、その根本的治療に取り組む時期が決まってくるのです。
気づかなければ、自分の中にある重大な恐れ、得体の知れない恐怖を理解せぬまま~意味不明の苦悩を抱え、永遠と過ごす事になるのです。
いままで、どんな人間関係の中で育ったか?生きてきたか?
触れ合う人の特徴がどのような事を自分に言おうとしているのか?
みんながそれぞれの悩みや何らかの持病を抱える場面を、どのような気持ちで観察してきたか?
そして、それを見て~どのような思いが芽生え蓄積されてきたのか?。。。これらの事が、すべて自分自身の未来へと影響しているようです。
時には、見させられるという事もあります。
このような人々を見てどう思うか?。。。これも、自分がこれからやろうとする事に関係してくる事柄なのかもしれません。
目の前に現れる人々は、今後の自分に大きく関係してくるメッセージを多く含んでいるようです。
その人たちと直接~縁がある。。。ということではなく、自分の目に映る~または五感で感じる出来事が何を言おうとしているのか?に縁があるのだと感じます。
いつも同じパターンで同じ痛みを経験する。。。方向性の一致する出来事への自分の反応はいつも同じだ。。。我慢の限界が近づくと同じところが痛む。。。似たような状況に陥ると、同じような現象が起こる。。。発病する。。。などは、明らかに一致する恐怖が心の奥底に燻っているはずです。
その奥底に潜む痛みは、自分自身で乗り越えなければいけない重要な痛みでもあるようです。
ただ痛いからと言って、痛みをすぐに取り除こうとすると、その痛みが訴えるメッセージが聞こえては来なくなってしまいます。
何を言おうとしているのかを観察し、そうなる意味に気づかなければいけません。
それを観察し続ける事で、今まで気づかずにいた、自分の奥底の~またはトラウマ、魂の叫びが聞こえてくるようです。
そして今まで陥りやすかったパターンや思い癖も発見出来るのです。。。
状況に振り回されるだけで観察を怠ると、せっかくのメッセージが水の泡となってしまいます。。。
昔からの病気への恐怖感を抱える場面などでは、自分に当てはめた時にも、大きな影響を及ぼすのが理解できます。
その恐怖という頑なに心をブロックしているものが、その時々で本来の治療を邪魔するようです。
自分の奥底の心が常にその恐怖に怯えていたとしたら、自分が何処かに不調を感じたとしても、病気と認めなくなってしまうようです。。。または認めたくないのです。。。
病気なりたくない。。。という恐怖が、どれほど自分が不調な状態となった時でも、大丈夫だと楽観視し無理をしがちです。。。元気なそぶりをし続けます。
ですがこの楽観も、恐怖の裏返しだという事には、本人も気づかないようです。
ひとつの抱える恐怖感を意味する根が、遠い昔のものであったり、根深いものであった時には、そう簡単には解決しないのでしょう。
ですが、いつも自分に感じる心や体の痛みを観察し、何を言おうとしているのか?を感じてあげる習慣を持つ事で、長年押さえ込んでいた自分の思いや恐怖、不安、自分の向かう方向性に気づく事もあるのです。
根っこに存在する痛みや恐怖を直視したがらずにいると、知らず知らずのうちに固いブロックを築いてしまうようです。
そのブロックは、触れられたくないデリケートで根深い部分かもしれませんし、癒しを最も必要とする部分かもしれません。
今までの人生で自分に訴えられてきた出来事のすべては、今の自分が抱える恐怖感を取り除く手がかりとなるもののようです。
そしてそれを克服した後には、もうひとつ上のステージに上がるキッカケとなる経験となり、自分らしさを取り戻し、新たな感性が生まれ、人生を確実に積み重ねていけるのです。
どんな両親に育てられたか?なども、それぞれの特徴のどこがどのように自分に影響するのか?
何を考えろと言っているのか?
何らかの刺激、原動力になっているはずです。
必ずそれをバネにした方向へと結ばれていくのでしょう。
もしかしたらそこは、自分が向かう方向性への学びの宝庫だったかもしれませんし、反面教師的な、熱い感情を呼び覚ます為のメッセージだったかもしれません。
その中で調合された自分が今ここにいます。。。
関わる意味ある人物たちに対し感じた思いが、未来の自分を創っていきます。
自分に訴えかけている痛みの出所を確かめる事で、何に対し恐怖を感じているのかが理解出来てきます。
集中してその痛みを辿っていくと、どんどん自分の過去が見えてきます。
今まで見えなかったことが鮮明に見えてくるのです。。。
何処でどんな生活をし、どんな偏りがあり、どのような環境で生きてきたのか。。。
これは痛みを持つ自分を素直に認めることで解決するようです。。。
長い痛みから解放される手がかりとなるのは、痛む自分を認めることが第一なのです。
それは、外的治療だけでは効果は及ばず、本人の心がその方向を向いた時でなければ、本格的治療は効果を上げることはできないという事です。
恐怖に怯えている時には、痛みを感じていたとしても、痛い。。。と言ってしまうと、魂から~または過去からの~『病気』。。。という恐怖に飲み込まれ~支配されてしまいますので、そう簡単には弱音は吐けません。
その恐怖から逃れようと、固いブロックを作り、どこがどんなに苦しくても認めようとせず、我慢し続けるのです。
これこそ、恐怖から逃れようとする行為そのものです。
ですがこれは、本格的治療からは、より遠ざかってしまうことが多いようです。
その気持ちを解放した時こそ、いろんな方法を試す余裕が生まれ、適切な治療が効果をあげるのです。
この固いブロックが邪魔をしているうちは、どんな改善策を練ったとしても、結果が出てこないのも事実です。。。そして、どんな崇高なエネルギーでさえも届いてはくれない。。。
やはり病というのは、心と本人の意思が深く関係しているようですね。
そして身に付いてしまった思い癖や、閉じ込められた思いの解消も、見直すのに適切な時期が訪れると、事故や病気、思いがけないアクシデントなどが起こり、一見苦しめられているだけのようにも感じられますが、実は長い人生の中での、治療と修正の一環として姿を現しただけなのです。。。
荒療治のような方法ではありますが、この荒々しい治療方法を呪ったりせずに、静かな心で、何を意味するのかと聞いてみてあげて下さい。。。
荒っぽいかもしれませんが、誰よりも心の温かい施術師が、端的に答えをくれるかもしれません。。。
数少ない答えの中から、自分で考え、本来意味する答えを見つけ出せる愛情溢れる訓練のようです。。。
キーワードを頼りに探っていくと~謎を解く事が出来る~ヒントが与えられる事でしょう^^
そしてすべては癒されていくのです^^
☆未来予想
明日を心配する人は多いと思います。
過去から~今日からの延長である明日はどのように展開するのか?
読めない不安は付きまといます。
ですが、念入りに明日を読み、その日の流れを想像したとしても、どんなに読みが深い人であっても、本当にそうなっていくとは限りません。
突発的なアクシデントに見舞われたり。。。読みが全く外れる事だって時にはあるはずです。
自分の不安を解消するためには、下準備~心の準備が必要だと思うのは、間違いではありませんが、この行為は、時には必要以上の思い込みと、先入観を創ってしまう事もあるようです。
明日がどう展開していくか?こそが、未知の世界であって、新鮮そのものなのです。
毎日同じ事の繰り返しで、あまり変わり映えしなかったとしても、先入観を持ってしまった味気ない今日の出来事よりも、今この瞬間に何が起こるか?ワクワクする事のほうが大切なのです。
ひとつひとつ新鮮な出来事として味わう。。。感覚。
明日に期待しすぎるのもよくはありませんが、読みすぎて新鮮さをなくすのは、もっと良くないことです。
動いていくものを、固定させようとする行為こそが不自然です。
明日はこうなっていく。。。と決め付け、思い込んでしまうことで、それ以外の番狂わせに対して、対応できない人間になってしまうようです。
臨機応変に対応していく順応性が、知らず知らずに失われてしまいます。
そして、自分の中で思い込んだ~決め付けの予定されている現実以外のものは、受け入れられなくなってしまいます。
何も先入観を持たずに過ごす人に比べ、未来の天気予報マニアは、今自分に流れてくる空気さえも正確に感じなくなってしまいます。
現実に沿って、目の前で起こる出来事に対し、順次対応していく事で、その動きに対し、正しい判断や行動が取れるようになります。
占いなどを通し感じることは、明日~未来がこうなっていくであろうと、明日を読んではいきますが、この情報のみで動いてしまい、それ以外のものを見ようとしない~遮断してしまう視野の狭さから、状況を自分のものに出来ない~失敗へと向かってしまうこともあるようです。
情報の活かし方がいかに難しいかを実感します。
へたに未来へと向かう情報がある事で、逆に視野を狭めてしまい、直感に従い、のびのびと行動すべき自分らしさを失くしてしまうのです。
人生の流れの方向性にも、いろんな過程があり、必ずしも同じ単調な状況が永遠と続きながら目的地へと向かうわけではないようです。
時には、蛇行したり、真逆の現実を通過点としながらも、向かうべき場所へと流されていくのです。
せっかちな人は、こうなるであろうという情報を鵜呑みにしてしまい、蛇行や、様々な過程があるという事を完全に無視する人も多い気がします。
この発想には中身と言うものが存在しません。
原因と結果の中間には、必ず何らかの過程が存在するのです。
お天気もそうですが、最終的には晴れることが予想できたとしても、そのいく先々では、時には曇り雨も降る。。。。晴れ渡った空に雲が見え始め、必ず雨が降る兆候は見えるはずです。
何事も決まった通りに、真っ直ぐに物事が進まなければいけない~予想を反するものなどありえない。。。と思ってしまうのは、本当に勿体ない事なのですが、流れにはいろんな形があって、多少横道にそれながらも、その許容の範囲~枠内で動いていきますから、時には、どちらかに偏っていると感じる時もあり、見分けがつきにくい場合もあるのだと感じます。
状況には揺れというものがあるのです。
敷かれたレールの上を歩きたい、経験にない予想も出来ない出来事に見舞われるのは嫌だ。。。と、決まった事をこなすのは簡単ですが、その人の才能や、資質、対応力、臨機応変さなどを充分に引き出し鍛えるために、常に新たなものとして明日を生きたほうが、自分自身を向上させ、才能を身に付け、自分を磨く事につながります。
そして、動物的な直感も磨かれていきます。
常に誰かのアドバイスを求め、全てを予想し続けたとしたら、いつしか自分では何も判断出来ない廃人となってしまいます。
そして、本来備わっているであろう感は鈍るだけで、自分自身の内なる才能が発揮できないパンパンの状態のまま、出口を失ってしまいます。
未来を必要以上に予想したがる~自分を防御しようとする行為は、ただの甘やかしという錯覚であって、防御ではなく、破壊する行為へとつながってしまうのを感じます。
それは、安心を求める行為にも感じられますが、本当は自分の感性にストップをかけるだけの行為なのです。
育っていくべき感性が、どんどん小さくなっていくだけで、いつしか鈍感で、神からのメッセージどころか、何をしても冴えないほうばかりを選んでしまう自分が完成されていくのです。
ツキに見放されるから、また誰かに身を委ねる。。。の繰り返し。。。悪循環ですね。
自分の嗅覚だけで行動する習慣に切り替えると、徐々に感が冴えてきます。
これは多少の訓練は必要ですが、習慣をつけるだけで、自分の感もまんざらではなくなるはずです。
自分を鍛える事を怠り、人に頼ってしまうことで、本来の持つ感覚は磨かれてはいきません。
自分の人生は自分の感で切り開く。。。という意識を持った人と、全てを人に委ねる人生を選ぶ人とでは、心の鬱積度が違ってくると思います。
自分の人生の決定権を、人に委ねれば委ねるほど、不安を持ち込んでしまうだけです。
そして、神から見放された自分が残るだけです。
長い間~自分を鍛える事を怠ったがために、失ってしまうものは、想像以上であることは間違いありません。
自分を鍛えるというのは、自然体で生き、その自然が織り成す数々の出来事を、何の先入観も持たずに考え、ただ素直に対処していこうとする精神だと思うのです。
そのものに対し、先入観を持ったり、決め付けることで、気づきは確実に遅れます。
その時に習得できる学びも、先送りとなるでしょう。。。
一度で学びきれなかったものは、何度でも繰り返されてしまいます。
嫌なパターンを繰り返す事で、更に恐怖感を持ってしまい、もっと臆病になってしまうのかもしれません。
そして、失敗を繰り返す。。。
繰り返している。。。と思う場合などは、次に起こる出来事を、経験値からの予想はあえてせずに、どんなに身に覚えのある出来事が繰り返されたとしても、同じだと捉えず、新たな学び~出来事と受け止めることが、アリ地獄からの脱出となるようです。
新たな出来事として新鮮に感じ未来を創っていくように意識する事です。
そうしているうちに、同じパターンの繰り返しのなかにも、今まで気づかなかった脱出の糸口が見えるかもしれません^^
自分を信じ、自分だけを頼りに生きる覚悟をしたものだけが、本来備わっている、内なる力を存分に発揮できるように導かれるのでしょう。。。
そして創造性という感性が育っていくのです^^
☆精神の不(負)安定
今~自分が異常な行動をとっている事にも気づかない人が増えているようにも感じます。
重度の不安を抱える為か?許容をオーバーしている。。。と自覚する事情を多く抱えている為なのか?どんどん追い詰められていってしまうのでしょう。
人間関係が希薄になってきているためか。。。追い詰められても、誰にも相談する事もできず。。。時には見てみぬ振りをされ、どんどん孤独化し陰性化してくるようです。
手当たり次第、不満を解消する対象~依存できる環境を探しますが、公然の場では、醜態をさらす事もできず、その矛先は自分と言う存在を悟られない~陰の世界へと向かうしかなくなるようです。
そして、自分の姿かたちを見られずに済む場所を探し、猛威を振るいます。
本人だと特定されないであろう場所を探し、解消しきれない事や、抱えきれない不満を発散します。
時には別の自分を装います。。。
人が健康的に自己を表現する場所が、どんどん向かうべき健康的な場所から離れてしまっているのには恐怖を感じます。
不満をぶつけても優位に立てると思われる相手。。。罪を問われないであろう相手。。。弱者。。。などを発散の対象とし、隠れた世界へと向かう人たち。。。
闇の世界へと向かう心には、絶望と諦めの感情も同居するようです。
早々と人生を諦めてしまうのは、勿体ないですね。。。
正々堂々と立ち向かう勇気のないもの達は、闇へ闇へと向かいます。
もっと健康的な発散方法もあるはずなのに、何故~自分を汚す事ばかり考えてしまうのか?
困難な問題が発生し~どう処理して良いのか?解らず、不満~不安が制御できないほどになってしまったとしても、闇へと向かうのも、健康的にストレスを解消しようと努力するのも、誰にも選ぶ権利が与えられており、自由が与えられているものなのです。
目に触れるところばかり綺麗に着飾っても、隠された心や外部には漏れない場所こそが、本来の隠し切れない自分と言う事でしょう。。。
誰にも感ずかれないであろう場所で、自分の裏の顔を存分に発揮できたとしても空しい限りです。
劣等感や悔しさ、被害妄想などの感情が抑えきれなくなったとしても、関係のない人に撒き散らす行為は、自分自身を汚す行為となってしまいますので、自分が可愛そうだと感じて欲しいものです。
社会的立場だけが保たれれば、見えないところで何をしても良い。。。という事でもないようです。
隠れての悪行は、自分をどんどん低くし、自分を汚し、カルマを増やすばかり。。。
人としてのレベルを下げる行為は、自分の心を限りなく汚します。
心が汚れると、更に不安が膨らむだけなのです。
ストレス解消の方法を一歩間違えてしまうと、一瞬は快感が走るのでしょうが、直ぐに反動として、それ以上の重い劣等感と罪悪感~惨めさが襲ってきます。
その重い劣等感や罪悪感が、より一層自分を痛めつける結果となり、人生を狂わす原因となってしまうだけなのです。
自分の心が痛むので、また同じ事で解消する。。。
いつまでたっても、その悪循環からは抜け出る事が出来なくなってしまいます。
その悪循環に気づき、切りの良い所で進み続けるのを止めると救われるのでしょうが、そう簡単には切り替えることが出来ずに、更に不安と怒りを抱える人生となってしまうようです。
どんな場所での行動も、自分がとっている行動には変わりなく、自分自身そのものなのです。
公然の場での悪行ではないから大丈夫。。。と思ったとしても、裏であれ表であれ、自分自身には変わりないのですから。。。
見えるものと見えないもの。。。これを全く違うものと考えている場合などは、このような錯覚に陥りやすいのだと感じます。
自分自身の自覚する見えている部分と、表面化されていない潜在する部分も、ひっくるめて自分自身なのです。
むしろ、見えない部分こそが問題の核心となる部分であって、そのものの本質でもあり、嘘のない部分でもあるようです。
悪の部分をひた隠しにしても、ある時気を抜いた瞬間に溢れ出すかもしれません^^;
しかも、今まで何とか均衡が保たれ、悪行が人目にさらされる事などないと安心していた時などに限って、カルマの解消の瞬間を味わう事になるようです。
カルマの解消の時とは、恥ずかしさと共に~戒められる形と化して、自分に戻される場合も。。。
このような緊張感漂う行動を取り続けると、いつしか気を抜く。。。事を忘れてしまいます。
常に緊迫した状況下での生活が当たり前となってしまうのです。
少しの緊張感は適度に必要ですが、限度を超えると、健康にまで影響してくるのも事実です。
自分を汚す事が、これほど自分自身の安定した心を脅かす事になるとは。。。
自分を正当化する技を身につけていたとしても、心の奥底で、いつ自分が咎められるのか?と恐怖に怯える日々も疲れ果ててしまうだけ。。。
心を宇宙に向かって開放したならば、もう少し健康的な解消方法や、解決策へと導かれるのかもしれません。
どんな時であっても、限られた状況の中であっても、究極の状況を除いては、幾つかの選択肢はあるはずです。
助けてください。。。と宇宙に助けを求めると、何処からともなく、柔らかな解決方法が降ってきます。
ただ、本心から助けを求めなければ何も起こりませんが、心が一点に終結した時には、思いもよらない奇跡が起こるのも事実です。
疲れた。。。と思ったときには、何が何でもこの場を乗り切ろうと、更に肩に力を入れるのではなく、逆に力を抜いてしまえば良いのです。
今までの自分から逃れるための解決方法とは?。。。抜くこと。。。が重要なポイントとなるのです。
ですが、悲しい事に、力を抜いて。。。と言われても、その習慣が染み付いてしまったが為に、力を抜くってどういうこと?どうしたら力が抜けるのか?という段階からのスタートとなります。
リラックス。。。という言葉は充分知っていたとしても、体が覚え、その状態を保つことが出来なければ、知っている事にはならないようです。
何度も自分を立て直しながら、意識しながら、力を抜く作業は繰り返されます。
力を抜く事を、これほどまでに意識しなければ、成しえないものだとは思いもよらない事でしょう^^;
意識の方向性を一歩間違うと、修正に手間と時間がかかってしまいます。
そして、時には苦悩というお土産がついてきます^^;
悪行を続ける反面、表向きは良く思われたいなどという欲張りさんには、余分なお土産が付いてくるのもよくある話です。
表ばかりを飾ろうとし、意識をそこにばかり集中すると、必ず偏りという影を創ってしまうようです。
影は隠すのではなく、太陽の光を浴びる習慣をつけ、ひとつ残らず殺菌してしまうと良いようです。
お日様の光は、心を健全にし、自然治癒力を活発にします。
日射病にならない程度に、太陽と仲良くしながら、ジメッとした場所を、カラッと乾燥させてもらいましょう。
どんな人でも、本来は明るく素直で純粋な心があるのです。
この個性の違いは、そこから遠ざかってしまっているのか。。。近い位置にいるのか。。。の違いだけなのでしょう。。。
太陽や自然と仲良くしながら、本来の力を取り戻していきましょう。。。^^
☆ありがとう
ありがとうという言葉には、強いパワーを感じます^^
何かを一生懸命やり遂げた強力なパワーが宿っているのを感じられる言葉でもあります。
また、頑張った自分を励ます言葉であったり、人との繋がりを感じさせる言葉でもあると思います。。。
その言葉と言葉を繋ぐ空間には~限りなく愛情が詰まっているように感じられます。
頑張った人からありがとうというご報告を頂く瞬間は、とても癒させる思いがします。
その一生懸命頑張る姿に、触れる事ができたという事にも、喜びを感じられるのです。
人が一生懸命頑張る姿が、これほどの活気あるエネルギーを生み、周りの人たちや環境に、偉大なるエネルギーを流す事ができるものなのだ。。。と、人の力の大きさを思い知らされる瞬間です。
ありがとうという言葉は、嫌な場面を乗り越え~到達したからこそ発することが出来る言葉のように感じます。
目標に向かって努力し、やり遂げたからこそ、そこに関わってくれた人や環境にさえも、優しい気持ちが生まれ、感謝も生まれるのです。
清々しい言葉でもあり、爽やかな言葉です^^
人が目標を持ち、そこへ向かって一歩一歩登っていく姿は美しいものです。
レイキは素直で純粋に頑張る人が好きなようです。
レイキや宇宙を信頼し、目的地点を明確に定め、不要な感情に支配される事なく、淡々と今課せられる使命を果たしていると、時期が来ると驚くほどのサポートが降りてきます。
やはり、誰にも可能性というものが与えられており、時には~想像を超えた奇跡を起こす事もあるようです^^
また似たような境遇にあるにも関わらず、全く違う方向へと流れていく場面を見ることがあります。
同じ境遇で、同じ様な経験をした人たちが、みんな同じ方向へと流されるわけではないのだと言う場面にも遭遇します。
何処が違ったのか?と考えてみると、やはり根本的な部分。。。心のあり方によって人生の方向性が変わる。。。という事が理解できるのです。
辛い状況や、長期的な苦しみなどがある場合は、心も乾きがちにはなりますが、今現在~全く光を見出せない状況にいたとしても、希望を持ち続けている人か、そうでないか。。で人生の矛先が微妙に変わってくるのを実感します。
諦めなかった人は、必ず報われるのだ。。。という場面に遭遇すると、救われる気持ちになりますね^^
人は何故~同じような事を経験しても、微妙にその後の人生が変わってくるのか?
人生を動かしていくための重要なポイントは、心のあり方にあるようです。
これはもう、どうすべきか?などいう、訓練から成るものでもなく、避けては通れない人間の質にも関係してくるように思います。
生まれ持った人間の質が、最後の最後で方向性を決定する。。。
思考パターンを変える。。。心のあり方や捉え方を前向きに変える。。。という自己訓練法だけでは、どうにもならない部分に、重要な鍵は隠されているのを感じます。
魂の質。。。というのは、どうしても隠し切れないという事なのでしょう。
浄化を魂レベルまで到達させて、清めたい気分にもなりますが、徐々に清められていく事でしょう。。。気長に待ちます^^;
無意識の行動に注目すると、その人の質が浮き彫りになります。
特に子供は観察しやすく、ありのままを見ることも出来そうです。
ある時、自動販売機で、私が飲み物を買おうとしていると、数人の幼稚園児くらいの子供が近づいてきて、お金を入れる瞬間を狙ってみているのです^^;
お金を入れた瞬間に自分の欲しいジュースのボタンを押す。。。という目的が見え見えです。
僕たちはジュースが欲しいのだ。。。と主張します。
ですが、見ず知らずの人に、ジュースをおごらせるという行為そのものも恐い限りですが、お金を入れた瞬間を狙われ、奪い取られようとしている私も、気が気ではありません^^;
勝つか負けるかのようなバトル状態の中、飲みのもをそそくさと買い、つり銭を慌てて販売機から出そうとしたのは久しぶり。。。というか、初めてかもしれません^^;;;;;
子供の知恵に負けそうになりながらも、何とか奪われずに済んだ私ではありますが、この幼児期の段階で、このような心のあり方では、先が思いやられる。。。と、未来に不安を覚えた瞬間でした。
その自動販売機は、人の家か道路か境目が解らないような所に位置していたため、その家に遊びに来る仲間同士の知恵の結集のようでしたが、親は家の中からその様子を見ているのが解りました。
完全に放置した状態なのだということが理解できます。
特に子供は、その瞬間毎に、良い悪いを教える繰り返しをしなければ、取り返しつかない状態になっていくものなのです。
見てみぬ振りの積み重ねが、その人間の人格や質にも現れてくる時が必ず訪れます。
そうなった時ではもう遅い気もします。
自尊心というのは、このような場面の繰り返しでは、育ちにくくなってしまいます。
愛する子供の、人間としての質を、どれだけ高めてあげられるのか?が親の愛情でもあり、責任にもなってくるように思います。
質を高め、高い目的意識を持ち、自分を大切に出来る人は、どんな場面に遭遇したとしても、自分を崩さずに、清く明るく生き抜く事ができるのです。
そして、土壇場の根性が養われていくのです。
また、大切にすべきものがわかる人間へと成長できるのだと思います。
短絡的に人から奪うことしか考えずに過ごす人生は、感謝などという感情とは無縁の寂しい人間になってしまいそうです。
感謝の心を持てるというのは、本当に人間として幸せな事でもあるのです。
それだけ、心に豊かなものが流れている証拠でもあると感じます。
ありがとうという言葉を、心を込めて言える人間へと成長したいものです。
長い間~幾度かの挫折を乗り越え、夢を諦めずに勇敢に人生に立ち向かってきた崇高な魂達に~祝福を送りたいと思います^^
大切な事を思い出させてくれた人生の挑戦者に感謝ですね^^
☆迷路
人生が小さな偏りから大きな転落へと迷い込んでしまうこともあるようです。
迷路の中を彷徨う迷い人は、どうにか抜け出す方法を考えますが、ひとつ迷うたびに、どんどん深みにはまり、出口を失います。
ひとつの所に留まり、出口を失う事で、頭の中までもが混乱し、整理がつかなくなってしまいます。
混乱してしまう事で、目の前にどんなチャンスが訪れても、どんな救いの手が差し伸べられても、それが見えなくなってしまうのです。
素敵なメッセージという音楽が流れても、聞こうとしない人には聞こえるはずがありません。。。
聞こえないからといって、答えが見つからないといって、全ての存在に見放されてしまった。。。というわけではなく、自分自身が遠ざけてしまっている場合が多い気もします。
迷い。。。というのは恐ろしいもので、最初は些細な迷いだったものが、制限なく~その感情に身を任せすぎると、気づいた時には、自分の手にはおえなくなっていることも。。。
迷いというものは、好き勝手にさせ過ぎると、更に周辺をウロツク同類の迷いを引き寄せ、支配しきれなくなってしまう場合もあるようです。
どちらにしようか?などという単純な迷いも、時間を長引かせる事で、それに関連する引きつけなくても良いものまでをも引っぱりこんでしまい、人生に悪影響を及ぼす結果となってしまいます。
迷いの迷路に入り込んでしまう人とは、「今だけ」を見ることが苦手なようです。
過去も未来も現在も全て一色単にしてしまい、感情が時空を超え、次々にいろんなところを駆け回り、見えない~見つからないと脇目も振らずに走り続け、へとへとになっているだけのようです。
そして、どんどん自分自身が解らなくなってしまいます。
ひとつの物事を考える時に、関連づけて考えるべき必要なものだけを優先させれば良いのに、今の自分が抱える感情や過去の思いつく出来事を、事あるごとに、今起こる出来事に全部乗っけて悩んでしまうため、こんがらがってしまうだけなのでしょう。。。
切り離して整理する習慣がないためなのか?何の関係性もないことまでをも引っ張り出し、あの時はこうだった。。。と、核心から外れてしまい解決が遅れます。
その行動は、周囲を苦しめているようにも見えますが、最終的には自分の心を窮屈にし、苦しめるだけなのです。
やがてはコントロールしきれなくなり、外に救いを求めますが、得られた情報やアドバイスなどに対しても、更に迷い信じることが出来ないために、益々確信が持てなくなり、宙ぶらりんな状態は続きます。
何をどうしたら、確信が持てる答えは見つかるのか?
自分と同じ状況だった人は、試行錯誤しながら答えを見つけ、成長し、どんどんその場から離れていきます。
皆に先を越されたような気持ちになってしまい、おいてけぼりを食らったかのようです。。。
何故取り残されてしまうのでしょうか?
ただ単に運が悪いだけでもなさそうです。。。
軽やかにすり抜けていく人たちは、今の自分をしっかりと見つめ、現実を目を見開いて今をみようとする覚悟があるからこそ、幸運の女神の存在が見えるのかもしれません。
人のオーラなども、本当は誰にでも見えているもののようなのです。
ですが、見えないもの。。。と決め付けてしまうがために、見えない。。。だけのようです。
周囲に答えなど転がってはいない。。。いるはずがない。。。という根拠のない決め付けが、自分自身の世界を狭くしているだけだということです。
初めから悲観的、否定的のもの見方が、どれだけチャンスを逃し無駄にしているか。。。
人が生み出す感情なども、その時の自分の心の状態が作り出しただけのものであって、何の根拠もないものなのでしょう。
他人に感じる感情なども、本当のその人自身を見た。。。というよりも、自分が相手に対し、勝手に作り出した感情であり、人物像に過ぎないということです。
本当に良い人なのか?悪い人なのか?まだ解らない段階で、自分の感情が勝手に決め付けた人物像でしかない。。。
人は物事を確かめもしない段階で、駄目だの。。。良いだのと、勝手なことを言いたがるものです。
虫の居所が悪い時に接触した相手などは、相手の悪いところばかりが鼻につき、大嫌いな印象となってしまうことも。。。
このようにその時の自分の感情によって、現状の感じ方が変わってくるのです。
感情の癖や、心の習慣~偏りなどが、自分自身の行動や感情。。。人生などをも支配し、蝕んでいる。。。という事のようです。
心の癖や悪習慣などは、時間の経過と共に大きく成長し、偏りを創ってしまうようです。
目の前のことにもう少し柔軟になり、柔らかな気持ちでものを眺めるだけでも、シャープな答えが見つかるかもしれません。
迷路に迷い込んでしまった時には、まずは柔らかくリラックスできる時間を取り戻す。。。
心が和らいでくると、自然と頭は明瞭になり、スッキリとしてくるものです。。。
そして雲で覆われていた心に、快晴が戻ってくると、広くを見渡せるようにもなります。
今まで見えなかった答え。。。そこに前から存在するのに、気づかなかっただけの大切なものが、視界に入ってきます。
肩凝りなども、凝り過ぎていると、そこが麻痺して自覚がなくなるといいます。
意識も習慣も同じ事が言えそうです。
凝りや偏りをほぐすと、その場所が凝っている事を自覚する。。。そして、良くするためにはどうしたら良いのか?と、周りを見る意識が生まれ、周囲の意見を受け入れる姿勢が生まれてくる。。。
やがては自分を正していく意識と繋がっていく。。。
知らず知らずのうちに身に付いてしまった、思い癖や悪習慣などにより、どんどん自分を追い詰め窮屈にし、正しく動けなくなっている場合もあるようです。
マイナス傾向から中々離れられない~現状を変えることが出来ないのも、長きに渡る悪習慣によるものが原因です。
偏った感情の癖が染み付いた状態と言えそうです。。。
自分の心の状態がどのような傾向にあるのか。。。?意識してみる価値はありそうです。
出口はない。。。と決め付けてしまう頑なな心からは、未来は生まれてはきません。。。
心のあり方を、プラス・マイナスのどちらに向けるかで、キャッチするもの、見聞きするものの質、種類、未来への展開が変わってくるようです。
人生をシンプルに生きるか?複雑化するか?は自分次第という事ですね^^;

